黒田官兵衛
くろだかんべえ
(1546〜1604.4.19)

略年賦

黒田孝高。通称の官兵衛および、出家剃髪してからは如水の名で知られる。洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。
最初、播磨姫路城主小寺政職(まさもと)に父とともに仕えていた。織田信長の勢力が播磨に及んでくると、父とともに信長につくことを勧め、秀吉を姫路城に迎えた。
荒木村重が信長に謀反を起こしたとき単身説得にあたったが捕らえられ、牢にいれられた。翌年信長によって荒木村重の有岡城が落ちたとき救出され、以後、秀吉の軍師となった。
関が原の折は子の長政とともに家康の東軍についた。長政は関が原に出陣したが、孝高は豊後中津城の留守を守り、豊後の旧大名大友吉統と戦い、これをやぶっている。
しかし実は、関が原のどさくさにまぎれ、西軍の負けを見越して領地を切り取っていたとも言われる。
嫡子は黒田長政で、福岡黒田藩の祖である。
ウ・ン・チ・ク

黒田官兵衛は竹中半兵衛とともに、同時期に秀吉の軍師を務めていたが、性質は竹中半兵衛とはだいぶ違い、どちらかというと秀吉に似ていた。秀吉自身、自分のようなものが天下にもう1人いることに驚異したという。ただ、少しおのれの才に頼むところが大きかったように思われる。その点で秀吉よりは、私のイメージとしては周囲に与える印象も多少アクの強いものであったように思う。
しかし、単身信長に謀反した荒木村重を説得に行き、狭い牢に1年余りもつながれて普通の人間なら病死していたところを、片足はたたなくなったものの、生き長らえて助けられた彼の精神力の強さには驚くしかない。信長・秀吉・家康と天下人が変わる中、みごとに乱世を泳ぎきった予見能力も特筆すべきだろうか。


ちなみに、このとき官兵衛は信長に子の松壽丸(のちの長政)を差し出しており、官兵衛の消息がわからなくなったため、信長は人質を殺すように秀吉に命じた。秀吉は竹中半兵衛に松壽丸を隠させ、官兵衛が救出されてのち、松壽丸を殺さなかった事を信長に報告した。信長は官兵衛の哀れな姿に同情し、命令に背いた秀吉を不問に付した。
しかし、この時秀吉に命を助けられた長政(松壽丸)は、秀吉の死後すぐに家康と通じ、石田三成方の情報を逐一家康に知らせ、多くの大名を家康の味方につけたとして、関ヶ原の戦いで家康の勝利が確定した折、家康に賞賛されている。
エピソード

※秀吉の懸念
秀吉が一通り天下を平定した後、論功行賞を行なった。黒田官兵衛は秀吉の功業の半分を助けるほどの働きをしたにも関わらず、わずか12万2千石の小封しか与えなかった。
あるとき、秀吉の近習が秀吉に「なぜかのお人に小封しかたまわらぬのでございますか?」と問うた。
秀吉は複雑な表情でこう答えたという。
「もしもあの男に100万石もくれてやったらどうなる。天下を取られてしまう。」


※如水の一言
関ヶ原の戦いが終わり、諸将が家康に賀辞を述べに言ったところ、家康は黒田長政に対しては丁重な辞儀をとり、床机から降りて長政の手をとり、3度おしいただき、「わが徳川家の子孫の末まで、黒田家に対して粗略あるまじ。」と言ったと言う。
長政はそれをたいそう喜び、父の如水(官兵衛)にもうれしそうに報告した。如水は苦い顔でそれを聞き、「その手は右手であったか、左手であったか。」と聞いた。長政はその質問の意味がわからず、「この右手でございます。」と答え、その手を見せた。
如水は苦笑し、「そのとき、そちの左手はなにをしていたのだ。」と吐き捨てるように言い放った。なぜ、左手で家康を刺し殺さなかったのか、という意味であった。
参考文献
司馬遼太郎「新史 太閤記」「播磨灘物語」「関ヶ原」